日航123便墜落事故の謎。事故の真相に迫る
1985年8月12日午後6時56分。
羽田空港から大阪へ向けて飛行していた日航123便は、御巣鷹に墜落した。
乗客と乗組員合わせて524人中520人もの犠牲者を出したこの事故、否、「事件」は多くの謎や不自然な点を残したままうやむやになっている。
この事件に触れることは、もはやタブーとされている節すらある。
今回はこの事件について、表向きに発表されている情報とは違う真相について迫っていく。
事件の概要
この事件は、表向きでは1985年に起きた航空事故ということになっており、正式にもそういった発表がされている。
以下に事件の概要を引用しておく。
運輸省航空事故調査委員会による事故調査報告書[2]によると、乗員乗客524名のうち死亡者数は520名、生存者(負傷者)は4名であった。死者数は日本国内で発生した航空機事故では2019年8月の時点で最多であり、墜落事故および単独機の航空事故でも世界最多である。
夕方のラッシュ時とお盆の帰省ラッシュが重なったことなどにより、著名人を含む多くの犠牲者を出し、社会全体に大きな衝撃を与えた。特にこの事故を指して『日航機墜落事故』[3]『日航ジャンボ機墜落事故』[4]と呼ばれることもある。
1987年(昭和62年)6月19日に航空事故調査委員会が公表した報告書では、同機が1978年(昭和53年)6月2日に伊丹空港で起こしたしりもち着陸事故(後述)後の、ボーイング社の修理が不適切だったことによる圧力隔壁の破損が、事故原因と推定されている。
(引用:Wikipedia)
事故を起こした日航123便が飛行中、何らかの原因で機体後部に破損が起き、機体尾翼の一部が吹き飛ぶ。
その結果機体は制御不可能となり、群馬県の山に墜落した。
その時の乗員乗客524名中、生存者はわずか4名で、日本国内では最大の航空事故となった。
この事故、表向きは「事故」とされているが、これは「事件」なのでは?と疑う声も多い。
多数の不審な点があるこの事故について、以降ではその謎と真相に迫っていく。
日航123便墜落事故の不審点
前述したように、この事故には不審な点がいくつもある。
以下ではその不審な点をひとつずつ紹介していこう。
事故が起こってから14時間後に発見
この事故が起こったのは1985年8月12日午後7時ごろ。
しかし、この機体が発見されたのはなんと翌13日の午前10時54分だったのである。それも地元消防団員の通報で。
この間14時間。このような大きな機体が群馬県のそう大きくない山に墜落し、こんなに発見に時間がかかるなどあり得るのだろうか。
もちろん墜落現場を目撃した地元の人も多く、警察や消防、テレビ局など様々な場所に連絡もしている。
しかしそれはすべて無視されていたという。
米軍ヘリの救助を拒否
事故後の13日午後0時13分、米軍のヘリも事故現場に到着している。
しかし、その場で応急処置をするも搬送はされず。
医師やその場にいた地元の消防士も「救助したのだから生存者を搬送してくれ」と要請するも、自衛隊は物資や人員の降下を優先した。
生存者を見殺しにしていたといっても過言ではない。
やっとの思いでヘリに生存者が収容され、搬送されたのだが、それまで8月の炎天下の中を3時間以上も苦しんでいたのである。
地元住民の証言
飛行機が墜落する前に123便らしき機体を目撃した地元住民の証言も多数残っている。
それによると、墜落前の123便を追尾するように自衛隊のファントム機が2機飛行していたのだそうだ。
地元の上野小学校の生徒が書いた文集にも「お父さんに『外で飛行機が追いかけっこしてる』と言われて見に行った」などとかなり具体的な目撃証言が残されている。
これに対し自衛隊は「ファントム機を出動させたのは墜落事故後である」と回答している。
しかし休暇中の自衛隊員もこのファントム機2機を事故前に目撃しているのだ。
子供や一般人の単なる見間違いではない。
それが気になった隊員は、緊急出動するべきか所属部隊に電話し、これが警察のデータにも残っているのである。
遺体の状態について
発見された墜落現場には多数の遺体があったわけだが、ここにも不審な点がたくさんあった。
遺体は考えられない程燃え尽きており、完全に炭化していた。
また、現場にいた消防隊員の証言によると、辺りにはガソリンとタールを混ぜたような匂いが充満していたそうだ。
飛行機というのは燃料に灯油を使用しているため、ガソリンのような匂いはもちろんするかもしれない。
しかしタールなどどこにも使われていないため、タールの匂いがするのはおかしいのだ。
遺体の確認をした医師の証言
かなり炭化して遺体の身元確認もままならない中、なんとか歯型で本人確認を行った医師は
「今まで何千体も焼死体の検死をしてきたが、今回のように骨の奥まで炭化するほど燃えていたのは初めてだ。普通は裏側や一部は燃え尽きず白いまま。二度焼きでもしないとああはならない」
と語っている。
これについては、検死に関わった群馬大学の医学部教授・古川氏も「焼死体をもう一度焼いたように感じる」と言っている。
ボイスレコーダーを公開していない
JALでは、事故やトラブルの合った際のボイスレコーダーは教材として活用され、公開されている。
しかし、今回の事故のボースレコーダーは「遺族への配慮」という理由で部分的にしか公開されていないのだ。
さらに、制御不可能になった際に最も近くにあった米軍・横田基地とのやりとりが公開されているが、ここでは一部やりとりが不自然にカットされている。
その後機長は「もうだめかもわからんね」との言葉を残し、なぜか横田基地とは反対の方向へ。
一体、機長と横田基地は、ここでどんなやり取りをしたのだろうか。
何のために?日航123便墜落事故の陰謀論説
このように、日航123便墜落事故には多数の不審な点があることが明らかとなっている。
これについて多くの陰謀論めいた説が囁かれているが、あくまで陰謀論なので話半分に聞いてもらいたい。
日本経済に対するアメリカの脅し
当時、日本は経済的にかなり成長しており、アメリカの経済にも影響を及ぼしていた。
この日米貿易摩擦を起こすまで大きくなった日本の経済に対して、アメリカが「脅し」として123便を撃墜した、という説が囁かれている。
その脅しが効いたのか、日本経済はその後確かに衰退の一途をたどっている。
自衛隊のミサイルが機体に当たった
123便の後方を自衛隊のファントム機が2機追尾しているのが目撃されているが、この自衛隊のファントム機が発射したミサイルが123便に当たってしまったという説がある。
その証拠を消すために自衛隊はガソリンやタールを混ぜて現場を焼き尽くしたのではないか。
それに時間と労力を費やした結果、生存者の搬送も遅れている。
日米問題に発展する可能性があった
不審点の一つであるボイスレコーダーについてだが、このカットされた機長の返答は何だったのだろうか。
例えば、最も近かった横田基地から「もし横田基地に緊急着陸し、そこで事故を起こせば日米問題に発展する」との言葉を受けていたら。
機長はそれを避けるために最も近く助かる可能性の高い横田基地には向かわず、他の策を考えたのではないか。
ちなみに123便の機長は自衛隊出身であり、横田基地で着陸失敗した際のことの重大さも理解していた。
グリコ・森永事件に関連する証拠隠滅
この事故と同時期に「グリコ・森永事件」というものが起こっており、この事件と関連付けた陰謀論も存在する。
「グリコ・森永事件」は「かい人21面相」を」名乗る人物がグリコ・森永の2社を脅迫した事件。
犯人は未だ捕まっていませんが、123便墜落事故の後犯人は「もう許したる」と急に態度を変え、実際にその後脅迫の被害は起こってない。
当時123便墜落事故とこの事件が世間からも注目度が高かっただけに、この2つの関連性を疑う声も出てきたのだと考えられる。
このような事例は意外と存在する
国や政府が事件をもみ消そうとし、陰謀論説までささやかれたこの事例には、意外にも類似する事件や事故が多数起こっている。
アメリカでは「トランスワールド航空800便墜落事故」という事故が有名で、事故の調査をしていたNTSBという組織のうち6名が、事故の17年後に「当時の事故報告書は虚偽だった」と暴露している。
暴露の内容によると「米軍の誤射ミサイルが800便に当たってしまった」とのことだった。
日本ではこの事故は報道されず、この事故についての映画も日本では公開されていない。
日航123便墜落事故の真相は
この事故の遺族に対して、検事は「真相を追及すると戦争になる」と語っており、JALの町田副社長も「ミサイルに撃たれたのだ」と発言している。
当然遺族は納得がいかず、当時の中曽根首相に遺体の処理方針について直訴を持ちかけた。
しかしJALの高木社長は「そんなことをしたら私は殺される」と言ったのだそう。
未だ真相は闇の中に
この事件に関して、証言や決定的な証拠は政府に隠され、真相は当事者のみしか知り得ないものとなっている。
アメリカの「トランスワールド800便墜落事故」のように、勇気ある当事者の告発や暴露を待つしかないのだろうか。
真実が明るみに出ることを願うばかりである。