やっと「死」についてちょっと向き合えた日
今日はたぶん、自己満足な記事になります。
でも忘れたくない出来事だったので書き留めておきます。
先日、中学時代からずっと仲良くしてきた友達(Kとします)のお母様の通夜に行ってきました。
共通の友達から突然電話がかかってきて、何だろうと思いつつも電話に出ると、「明るい話題ではないんだけど…Kのお母さんが亡くなった」と。
突然でした。次の日、通夜があるとのことで、僕は大学の授業を飛び出して通夜に参列してきました。
なにぶん、まだそういった経験が多くないものですから、準備にバタバタとしてしまい、考える暇も無かったです。
服装やマナー、通夜の流れ、焼香や御香典など…無知は恥ですね。
会場に着き、線香をあげた後にK含めご遺族と少しだけ会話をしました。
2年ぶりぐらいに会うお父様はがっしりして威厳のあった昔よりかなり痩せていて、優しそうな雰囲気になってきました。
妹さんは今年成人式を迎え、より大人っぽく綺麗になっていました。
そしてKは、同級生と思えないぐらいしっかりしていてこんな時に言うことじゃないかもしれないけどかっこよかった。
僕がKの立場だったらと思うと…あんなにしっかりと振る舞えないなと。
ご遺族3人はみんな、気丈に振舞っていました。お父様は最愛の妻、そしてKと妹ちゃんにとってはたった1人の母を亡くしたのに、です。
強いな、と。それと同時にその人格をつくりあげたのは紛れもなくお母様だったと、僕からみても思えました。
僕はというと、住職さまが会場に入り、枕経をはじめてからやっと緊張がなくなり様々考えることができました。
中学の時家が近かったこともあり何度も家に遊びにいったこと。一緒に馬鹿をして一緒にお母様に叱られたこと。エッチなビデオをみんなで見てるのがバレて困らせたこと。手料理をご馳走になったこと。
最後に会ったのは僕が成人式のころだったのでおそらく2年前。あの時はあんなに元気だったのに、と思っていましたが、2年半前に癌を発症していたなんて。今の今まで全く知らなかったんです。
涙は流せない。ご遺族の振る舞いをみていると。
でも心底、「最期に会いに来て良かった」と思いました。
ここ1年は、僕の身近に「死」がありすぎました。今回のことや親戚、バンドの友達も1人亡くなりましたし、僕の好きな有名人もたくさん亡くなった。14年連れ添った猫も。
死って、生って、何なのでしょうね。
僕は特に普段から宗教にそこまでこだわってはいないのですが、仏教の教えでは人は死生一体、死んでも魂は失くならない、といいます。
枕経をあげていた住所さまも、「死んだらこの世よりもっときらきらした、仏様の世界に行くのですよ」と仰っていました。
僕はその通りです、なんて言えませんし、わかりません。
でも住職さま曰く、枕経は本来死期の迫った人、つまりまだ生きている人の枕元であげるものなのです、という話を聞いて、少しだけ自分にも思うところがありました。
仏の教えやその他の宗教、お葬式や通夜などの儀式って何のためにあるのだろう。
やっぱり「生きている人」のためということなのかもしれないな、と。
枕経は、死期の迫った人に対し、死は怖くないものだと教えるためにあると住職さまは仰っていました。
通夜も葬式も、故人にこの世での最後の別れを告げ、次の世での幸せを願うと。
これって今この世を生きている残された人々の心を救うことだと思ったんです。
死んでもまた違うところで幸せに暮らしている、だから残された人も寂しいけど辛くない。
辛くないなんてことはないか。そりゃ辛いけど。でも救いはありますよね。
Kは4月から社会人。見事公務員試験に合格しました。妹ちゃんも成人式を終え、お母様も2人の立派になった姿を見届けることが出来て、少し安心したのかもしれませんね。
享年50歳と早すぎる死でしたが、成長した姿をしっかりと見せたKと妹ちゃんはとても立派だと思います。
僕だってもう両親がいつまでこの世にいるかわかりません。
Kみたいに立派に生きていない。
大学だって留年して迷惑かけたし就職すらまだ決まっていない。
結婚もしたい。子供もできれば産んで両親に見せたい。
適当に生きちゃいけないなと思ったそんな日、絶対忘れんな自分。
もし最後まで見てくれた人がいたなら絶対に適当に生きないでください。
案外、「死」って身近にありますよ。
やるときは全力でやってください。
遊ぶときはたくさん遊んでください。
休むときは精一杯休んでください。
次はもうちょいためになりそうなの書きます。では。